Intersection & Union

 

今日は行く予定ではなかったらせん。の弾き語りライブに行った。

洋志さんのギターが壊れてしまって、私のギターを貸しに足を運んだ。


素敵な音楽に出会えた夜だった。

ライブを見てる時って、一番色んな思いが生まれる瞬間だと思う。

相手が素に近い気持ちを差し出してくれる瞬間だから。

「こんな風に思ってるよ」とか、

「こういう事は違うと思うんだ」とか、

それに対して、私の中で自然に会話が生まれてくる。


「私もそう思うな、その言葉を聞いてもっと自信がついたかも。」とか

「そう言う理解の仕方なんだ、でも私は違う様に理解してるな。」とか

私が私の考えと理解を持ち、誰かは誰かの考えと理解を持ってる。

それはきっと違うけど、違いはぶつかり合いじゃなくて、交換っこだと思う。


数学の中でもあった確か統計学の事を思い出した。


AとBの積集合は「A ∩ B」、つまり同じ部分しか取らない。

AとBの和集合は「A ∪ B」、つまり同じ部分と違いの部分も全部取る事。

「∪」はUnionと言う言葉であって、まさにその意味通りだ。


ライブを見る人は、 A ∩ Bの人の方が多いんじゃないかと今になって私はすごく思う。

同じ部分だけを求めて、自分の望む肯定を求めてライブハウスに足を運ぶ。

自分が良いと思う事の他人の肯定を求め、自分が悪いと思う事の他人の否定を求め、

結局何も変わらず、誰も変わらず、同じサイクルの中で回っている。

求めていたのは答えじゃないから、いつまでたっても欲しいものが見つからないし、

探し物がなんなのかさえ分からない。

これは、孤独だ。


私も孤独だった。

自分の考えとマッチするアーティストを必死に探してた。それでしか、自分を認める方法を知らなかったから。

見つけたは見つけたものの、そんなアーティストのライブを観ても、スカッとはせず、結局その場だけの発散と、終わった後の虚しさで胸がいっぱいだった。

A ∩ B ≡ A は何も変わらないと言う事だ。

私はずっとそれを嫉妬だと捉えていたけど、それは本当に嫉妬なのかもしれないが、嫉妬と言う感情は、人間の一番複雑な感情だと聞いた、だからそう簡単に、その感情の出所や引き金は見つからない。今になって、やっと分かって来た気がする。

それは、孤独だ。


自分を自分で認められず、他人を他人としても認めてあげれず、行き場のない、帰る場所もない孤独だった。

それはつまりA ∩ B ≡ Ø。 AとBが交差し、重なる部分が無い場合、AとBの元々持っていたモノも価値を無くし、ゼロになってしまうそんな孤独の計算式しか持ってなかったからだ。

そしてなんて劇的な事だろう、数学では「A ∩ B ≡ Ø」を「相斥事件」(相互排反事象)と呼ぶ。

つまり、矛盾であり、お互いを嫌うと言う事だ。
人は一人一人、必ず違う、もしみんなが同じ「∩」の計算式しか持っていなかったら、世界は争いしかないんじゃ無いかな。

私は昔、嫌いな感情をいっぱい持ってた。怒りも持ってた。でもいつのまにか、何に対しても嫌いな感情を持てなくなってしまった。何が起きたのかはずっと探してたけど、答えが見えた。

「A ∩ B」から、「A ∪ B」に自分の計算式を変えただけだった。

自分と他人の同じ部分を受け入れ、他人と違う自分の部分を受け入れ、自分と違う他人の部分を受け入れ、それが「A ∪ B」の計算式。